東大門外遊郭「清凉里588」空間構成の歴史と変化

オ・ユソク 200909

1.序

遊郭と売買春を扱った数多くの文献においての共通点は遊郭を「時・空間」として見る観点よりも性売買行為そのものに大きな関心を寄せているという点だ。しかし重要なのは「清凉里588」「ミアリテキサス」「基地村」など、われわれの周囲に数限りなく散在する遊郭の存在が、「時‐空間」のなかで占有されてきた歴史とその方式に対する説明がいままさに必要ということである。この論文において明らかにされる「東大門外清凉里588遊郭」とは、解放以降半世紀が経過してもなお「空間」を具体的に占有しつづける「番地のある」性売買女性集結地をさすものだ。この地域は他の地域とその境界をくっきりと分かち、相互疎通の方式において極めて制限的な側面をもつ一方、空間内部の従事者間にあっては堂々たる共同体(共生関係)を構築している。

もちろんこうした空間の「時‐空間」的歴史性が空間の存在可否を正当化しうるものではありえない。それは古臭い公娼‐私娼論争や「癌的存在=社会悪」「必要悪」といった言い争いをいたづらに誘発するだけだ。いま明らかなことは凡そ半世紀に渡って存在し続けてきた「清凉里588遊郭」が2009年現在、物理的・強制的な廃衰状況に置かれているという点そのものである。したがってこの文章は、まもなく消え去ってしまうやもしれぬ「清凉里588」の歴史を時系列的に点検しつつ、「空間」に堆積した歴史的・社会的意味をいまいちど探索してみようとする作業にほかならない。


2.売春が無くなったことは一度もない

わが国における売春は一般的に「誤入」「淪落」「売淫」「売買春」「性売買」等の用語で呼ばれる。これら用語は一般的に「性を売る行為」を意味するものであるが、実際に売春問題の原因をどこに置くのか、誰の視点から売春を観るのかが、用語にそのまま投影されている。すなわち淪落、売春、売淫等の用語には「売る者」にのみ焦点が当てられた前提において、性を売る行為者に対しての道徳的非難が込められている。韓国社会において大部分の売春婦が女性であるということを勘案した場合、言うなればそれは結局女性に帰結する用語となってしかるべきであろう。しかし実際の売春とは性を売る者ではなく、性を買う者の必要によって生じるのだという観点から、フェミニストや売春女性を支援する現場の活動家たちは、売春を「売り、そして買う行為」と強調するために「売買春」という用語を使用するようになり、最近では「性売買」という語も一般化しつつある。

性売買がおこなわれる地域は遊郭、私娼街、花柳界等と呼ばれる。遊郭とは性売買女性たちを一定の区画内に集め営業する公認地域(いわゆる公娼)を指す。遊郭は集娼制の名のもと性売買を一定の場所に囲い込み、特殊地域として孤立化させる一方、私娼が一般の住居地域に浸透・乱立するのを取り締まる目的から、1585年日本の豊臣秀吉が大坂に傾城町(遊郭地帯)を公認したことを端緒とする。このような公娼制度が江戸幕府によって継承・拡大化され、1924年時点においては日本国内に「遊郭(公娼)」と名指しされる性売買集結地が544箇所にものぼるようになった。この日本式遊郭が韓国に初上陸したのは1902年7月24日釜山でのことである。朝鮮王朝末期までわが国には、不特定多数を相手に金品を受け取って性を提供する公認された職業としての性売買業は存在していなかった。妓生や妓女という女性たちは存在したが、芸や技が必須条件であり、仮に飲酒の接待をおこなったとしても売淫はあくまでも付随的な行為だったと考えられている。日本人上野安太郎が釜山富平町一丁目で料理を提供しつつ性売買もおこなう特殊料理店を開業し、「峨媚山下」と呼ばれる遊郭が形成されていった過程から、現在の釜山広域市中区富平町一帯は韓国における遊郭の発祥地とみなされている。

従事する女性は総勢280名にも達し、場所が手狭となるや、1907年8月近隣緑町地域(現・玩月洞)へと移転した。 遊郭はその後ソウル方面にも進出した。1902年12月仁川(中区仙花洞)に、1904年10月にはソウル南山付近の雙林洞(現・中区墨井洞ソフィテルアンバサダーホテル付近)に新町遊郭が設置された。以降忠武路1,2街はもちろん小公洞、太平路などに散らばっていた私娼らがこちらに業所を移し、雙林洞には20軒あまりの遊郭が並び立った。また龍山にも同じ時期弥生町遊郭が生じた。1929‐30年当時のわが国には25箇所の遊郭地が設置され、510名の経営者(うち日本人303名)と3170名の性売買女性(うち日本人1789名)が活動していたが、公娼制は1947年11月駐留米軍政庁の<公娼廃止令>によって、釜山に初の遊郭ができて以来44年ぶりに、歴史のなかに消え去る運びとなった。こうして公娼は公式的に不法化されはしたものの、性売買そのものが完全に無くなったわけではない。

日帝が作り出した性売買集中地域はその後の相当な期間にわたってわが国に深刻な後遺症をもたらした。(はなはだしいことには現在まで消滅することなく「歴史と伝統」を誇りつつ生きながらえている場所も数多い)1949年12月30日付「東亜日報」によれば「なくなるどころか増えている私娼」とという題の記事が挿画とともに報道されており、ソウルの中心部である仁義洞や雙林洞をはじめ市内各地に潜む売春婦たちの醜雑なありさまを描写している。私娼とは性売買が禁止されたにもかかわらず、不法に、国家の許可もなく性売買をおこなう女性たちを指し示す言葉だ。そしてその澱みに油を流し込むものこそが戦争だった。当時の日刊紙各社はこぞって、性売買女性の相当数が戦争未亡人であると報道している。朝鮮戦争で夫を喪った若い未亡人たちには充分な生計対策もなく、性を売り買いすることがどのような基準から見ても好ましいこととは言えないながら、戦争で全てを失った彼女らに対して「倫理観を守れ」と言うことそれ自体、別の意味での「暴力」に等しかったのである。


3.特定地域設置と「清凉里588」
3 -1 ソウルの散在する私娼の氾濫

このように性売買が禁止されて以降、性売買女性の数は減少するどころかむしろ増加の傾向をみた。保健社会部が実施した年度別接待婦検針票によれば、売春婦ならびにこれと大差ない接待婦などの淪落女性総数は、1947年16874名から1959年末現在167000名へと、およそ10倍に増加し(これは当時の南韓の女性人口比0.71%に相当する「朝鮮日報」1960年9月)私娼は統制不能なまでに拡散した。(「朝鮮日報1951年9月」は淪落女性約70%が戦争未亡人であり「京郷新聞1955年8月」は全国の性売買女性のうちの大半が戦争未亡人、と報道するほどであった。

また「朝鮮日報1956年1月」、は淪落女性を取り締まるよりはまず「救護」が必要だと説き、未然防止のための厚生制度を発効させるべく、未亡人救済策への積極性が切実だと報道している。)また1959年6月10日付の「朝鮮日報」記事によると、古くからの私娼街である鍾路3街(鍾三)、墨井洞、陽洞以外にもソウルの各所において、相当数の私娼が蔓延していた事実がうかがい知れる。このように各地域に散在し根をはる性売買女性の数がソウルだけでも約5000名に達したものと警察は推算している。

徐鍾三(西鍾三)と呼ばれる楽園洞、鳳翼洞、仁義洞、長沙洞を筆頭に、ややはなれた清進洞にも独立小隊然とした40名ほどが陣を張り、東大門側鍾路7街に凡そ30名、清凉里市場一帯ではほぼ200名にも達する。また西大門区新村に100名、清渓川辺一帯に簡易居酒屋の接待婦兼業の私娼もみられ、光煕洞に50名、墨井洞に30名。高級な部類に属する娼婦たちは明洞を根城に南山洞、会賢洞一帯に散在しており、ソウルの関門たるソウル駅を中心に南大門市場にまで広がる陽洞、桃洞一帯には500名以上が勢を奮っていた。

またソウル駅裏にあっては中林洞、蓬莱洞一帯が50名、龍山駅前や三角地一帯で軍人を相手にする者らが80名、梨泰院にも米軍相手の者たち200名ほどが存在し、夏季には獲物を狙って漢江に集まる遊撃部隊が漢江両岸に群れを成す有様。さらに川向こうの永登浦には、俗称板門店とも呼ばれる永登浦駅前、新吉洞をはじめ、堂山洞、楊平洞、大方洞、永登浦公設市場のある永二洞(訳註 永登浦2洞)、文來洞等広範囲に亘る地域に300名以上の娼婦が布陣、特に文來洞と新吉洞には主に米軍兵士と同寝する女性が多く、駅前の横丁や京紡(訳註 京城紡績)正門前の紅星楼の裏路地がもっとも繁盛している。

こちら永登浦地区はソウルの失地回復後、多くの駐屯部隊が駐留し、戦火を逃れたソウル市民らの集結地だった当時には4000名に達する私娼が隠棲し、部隊の移動にしたがって各地に散らばっていった。その他にも往十里、トゥクソム一帯、彌阿里市場付近、陽川。麻浦干潟など人ごみの慌しい部落ごと根付く淪落女性らは俄かに数え切れぬほどその数を増し、ソウル市に約5000名を越える娼婦がいるものと警察では推計している。(淪落地帯その1「朝鮮日報」1959.6)

しかしながらこの記事中では東大門外清凉里市場近隣に言及してはいるものの、われわれが取り扱おうとしている清凉里588(典農洞)を指目するというよりは「清凉里市場一帯」とだけ報道している点に注目したい。したがってこの時期においては、その後大韓民国の私娼の代名詞となる「清凉里588」に対する空間認識は、今日のようには大衆化されてはいなかったものだと思われる。


3- 2 淪落行為防止法制定と特定地域設置


1961年の516クーデターで実権を掌握した朴正煕軍事政権は政府の存立に正当性を付与する目的から、「社会悪」根絶の次元で<淪落行為防止法>(法律第771号)を制定し、性売買に対する禁止措置を下した。しかし同時に<淪落行為防止法>が立法化された明くる年1962年6月、内務部、保健社会部、法務部は合同で全国104ヵ所に特定地域(結集地域および基地村)を設置、運用を開始した。私娼街と基地村を中心とした特定地域設置は事実上の公娼制度としての性格が強く、法的根拠のないものだった。設置理由は「淪落地域を隔離し国民風俗と教育に与える悪影響を最小化し、淪落女性の集団化を通じた協同精神高揚による抱主からの搾取防御、性病管理の確立による保健衛生阻害を防止するためのもの」であると説明している。(保社部資料 1987)当時選定されたソウルの特定地域は10ヵ所。ソウルの特定地域は永登浦駅、ソウル駅、清凉里駅付近など、いわば都心と外郭を結ぶ重要道路交通軸を中心に布陣していることが理解できる<図1>。すなわち私娼は主に交通が発達した地域に生じ、発展してきたのだといえる。そしてこの時期もうすでに、本研究対象である清凉里典農洞一帯が特定地域に指定されていることは特に目を引く事実だ。

「清凉里588」は行政区域上、東大門区典農2洞一帯を指すものであるが、この地域が政府の持続的管理する私娼街としてまさにこの時点で登場したわけである。 特定地域設置と同時に淪落女性善導事業に関する研究調査をはじめ、職業斡旋、帰郷事業など、善導対策を強化するための淪落女性善導委員会が発足した。ソウル市の場合1962年2月6日付で、宗教界、教育界など12名の各界人士を中心に発足をみている。当初私娼街の事業主たちは特定地域に指定されることにより、警察の取り締まりが厳しくなり、営業に多大な支障が出るものと憂慮した。しかし事実上特定地域は「善導地域」という名の下、まさに公娼制度のごとく警察と当局の保護を受ける形となった。

その結果、社会悪に対する策はある時期よりは徹底されたものの、善導実績は微々たるものにとどまり、制限された地域内での事業主数・娼婦数は徐々に増加、むしろ公認された集団売春街(集娼村)の様相を帯びるようになった。1962年および1966年の「朝鮮日報」記事、1964年の保健社会部資料、1969年の雑誌「サンデーソウル」記事などのデータによれば、1964年には14ヶ所に性売買女性3100名(保社部1964)、警察の集計では1966年善導地域に3183名、非善導地域に904名、性売買女性数はあわせて4000名以上にものぼった。また、淪落女性を食い物にするペンプ(客引き・仲介者)、キドゥン書房(訳註 所謂ヒモの類)、暴力輩などを一掃すべく作られた善導委員会は本来の趣旨からは外れてゆくばかりであった。月賦金と称した善導費(1000ウォン前後)、営業監察費(戸当たり4‐5000ウォン)を回収する役割と、警察の取り締まりで検挙された事業主や娼婦が即決裁判に回される前に素早く手を打つ役割を担う私娼街の君主、言いかえれば警察に圧力をかけるためのブローカーに成り下がっていったのである。

このように性売買を根絶するというよりはむしろ性売買を黙認し、警察-善導委員会-事業主-ヒモ、という四角関係の食物連鎖を扇動した特定地域は、1972年地域社会浄化の次元で内務部によって、一般的には廃止されるはこびとなった。しかしながら既に集娼村化を見た私娼街が消滅するわけではなかった。しかも当時の特定地域はソウルに散在した全ての性売買集結地を指定したものではなく、政府が一般住宅街から隔離し、性売買女性の集団化を通じて事業主の搾取予防、性売買女性たちに対する合法的管理および統制を目的に性売買を容認しようとした一部の地域に限られるものなのであった。したがって1994年に至るまでの間、全国には56ヶ所の特定地域が公式に厳然と存在していたのである。保健社会部ではこれら地域を「淪落女性集中善導地域」という名称で存置した上で管理し、市・道など各自治体とともに善導政策を実施、一方で警察はこれら地域に対して法の執行を保留しつづけてきた(キム・エリム1990)。1994年時点のソウルの場合、5大集娼村(性売買集結地域)たる龍山駅前、清凉里588、城北区下月谷88番地一帯、永登浦駅前、千戸洞423一帯に、総勢1602名の性売買女性が存在しているという報告がなされている。(ウォン・ミヘ1997)


4.東大門区典農2洞-清凉里588の歴史と変遷
4 -1 鍾三撤去と陽洞の縮小

ソウル市中区鍾路3街(鍾三)一帯と東大門区昌信洞、そしてソウル駅前陽洞、中区墨井洞一帯は、1960年代すでにソウルの代表的性売買集結地としてその名を成していた。にもかかわらず、これら地域は1962年に特定地域選定されなかった。なぜならば特定地域とは当時淪落街や私娼街として認定を受けている全ての地域をさすというよりも、政府が将来不法営業を黙認する予定の淪落街という性格が色濃かったからだ。

第3共和国政府はここに含まれない地域をすべて閉鎖し、この地域の性売買女性たちを特定区域内に移動させる考えを明らかにしていたが、それが実行に移されることはなかった。こうした足踏み状態にあった淪落街撤廃にむけての動きは偶然をきっかけに、1966年東大門区昌信洞一帯で始まった。1966年8月鍾路区昌信洞私娼街で淪落業所を営んでいた鄭愛心(当時29歳)という事業主が、善導委員会を通じ警察に毎月上納している事実を記した「上納金帳簿」を公開。これにより警察官6名がまとめて免職その後拘束されるという事態につながった。その後1年が経過した1967年8月東大門警察署は、昌信洞430、436、402番地一帯の136ヶ所に及ぶ板子チブ(註 簡易な板張りの小屋、バラック住居)に巣食う200名あまりの淪落女性および各種犯罪の巣窟を浄化するとの名分でソウル市警機動隊を動員し集中摘発にとりかかった。これにより昌信洞「赤線地帯」は閉鎖され、場所を追われた女性たちは厚生の道よりも警察の取締りを避ける意味合いで近隣の祟仁洞や新設洞一帯の住宅街に浸透し、この一帯の住民が警察に陳情する騒ぎにもつながった。

1968年1月保社部は、516クーデター以降淪落女性の善導名目で良性化しつつあった赤線地域に関して内務部と合議、ソウル鍾路3街など全国11ヵ都市一箇所ずつの地域について4月以降モデル的に撤廃することを決定した。これは性売買女性が漸次増加したことだけが理由でなく、30歳が50%を占めていた娼婦の平均年齢が徐々に低年齢化し、12‐20歳が全体の40%を占めるようになるなど、地域設定が実効性に乏しくなってきたものと判断してのことであった。(このモデル的撤廃計画と連動し)ソウル市が鍾路3街私娼街整理作業を開始したのは1968年9月21日のことだった。ソウル市はまずそれまでにはなかった「淪落女性申告カード制」を導入、事業主と淪落女性を管轄区庁に登録させ、赤線地域外の一般住宅などに浸透する事業主や淪落女性の告発を受け付ることにした。また淪落女性たちが事業主や楼主から負った借金は21日を期に全額無効化する決定を下し、これを啓蒙する一方、強制収容、帰郷誘導などの具体的善導および取り締まり方案を打ちたて撤去作戦に取り組んだ。当時のソウル市の調査によれば、鍾路3‐4街一帯では111名の淪落事業主と1788名の淪落女性が性売買営業をおこなっていた(「朝鮮日報」1968月9月)。実際に作戦が実施された27日以降、一帯の取り締まりを通じ摘発された淪落女性のうち152名を市立婦女保護所に収容、462名を説得・帰郷措置する一方で、122名に対しては縁故者を捜索するなどした。

その後10月5日には鍾路区庁職員230名と鍾路署200名の警官が宗廟を中心とした団成社-苑西洞-苑南洞-鍾路4街をむすぶ浄化区域を隈なく捜索し、残っていた淪落女性たちを摘発、1週間に亘る掃討作戦、別名「蝶々作戦」を完了した。これにより解放後23年間ソウルの代表的私娼街であった「鍾三(鍾路3街)」は完全に撤廃され、淪落女性の姿は消え去った。しかし掃討作戦が一旦成功を収めてはみたものの、淪落女性に対する根本的な問題がこれで解決されたわけではなかった。撤去後この一帯には「休暇に行った」「避難した」という新語が流行語のように広まり、事実大部分の淪落女性たちのなかには「陽洞」や「典農洞」など他の娼女村へと居場所を移す者が多く、鍾路に替わる城北区彌阿里や城東区(現江東区)千戸洞一帯に新しい私娼街がこの時期生まれ始めていた。

鍾三時代は終わりを告げ、ここにきて新しい時代が幕開けしたというわけだ。しかしソウル市の掃討作戦も根気よく継続された。昌信洞と鍾三掃討で自信をもったソウル市の金玄玉市長とソウル市警は1969年を「非市民的行為浄化の年」と定め、全行政力を結集させて市内の淪落行為を根絶、ソウル市内の私娼街を根絶やしにし、3000名の全淪落女性を特定場所に収容後、技術指導および精神教育を受けさせて再活の道を拓くと抱負を語った(「朝鮮日報」1968月10月)。ソウル市は1969年祟南洞と桃洞一帯を浄化地域に選定し撤去をおこなった。また1970年にはソウル駅周辺陽洞一帯の撤廃に着手し、完全な浄化までにはすんなり至らぬながらも持続的な摘発成果と再開発によって漸次縮小をみた。


4- 2 性売買1番地「清凉里588」の浮上

しばしば「588」というその番地数で世間に通用する清凉里駅前私娼街の実際の番地数は東大門区典農2洞-620、622そして623と624番地に該当する。その中でも620番地と621番地一帯には聖パウロ病院とカトリック医科大学の建物が立地している。この場所は鍾三、陽洞、昌信洞一帯が浄化地域指定および都市計画によって没落期にはいった1970年代初頭から売春の盛市を誇り始めたものだとかんがえられる(「東亜日報」1978月10月)。

この地域が1962年に指定された「特定地域」に含まれていることから見ても、すでに定着化した淪落地帯であったことは自明だが、専ら1950~60年代ソウルの代表的私娼街といえば鍾三、陽洞、昌信洞のことを指すのが一般的であり、その理由としては、それだけこの地域がかつて世間の注目を集めたことのないマイナーな場所だったがためである。「清凉里588」の範囲は清凉里駅を基点に聖パウロ病院をかすめて市内方向400m西方の三叉路と、その三叉路から踏十里側陸橋までの200mを辺としてむすぶ総面積およそ800平米を占める極めて規模の大きなものである<図3>。わが国において、売買春が不法である、という点を考慮に入れたとしてもこれは相当な広範囲である。ここに大まかな見当で約300軒の淪落業所(娼家)がぎっしりと立ち並んでおり、一軒に4名ずつと見積もっても1200名の女性が常住している計算になる。

本来は典農2洞620番地であるこの場所が何故「清凉里588」と呼ばれるようになったかについて、その正確な記録を見つけることは容易ではない。ここに二つの説が存在する。ひとつは清凉里588番地に由来するという説、もうひとつは588番の市内バスがこの場所を通過することにちなんでいるとする説だ。しかし1996年に清凉里遊郭地域を調査したソウル市立大学のチン・ヤンギョ教授は、東大門区庁地籍課担当職員の証言により、地番上の集娼村位置が620、622、623番地であり、588番地とは相当な距離があるという点を根拠に第一説を退けている。また第二説に関しても、588番バスは元来この場所を通ってはいないため名称の由来は依然不明瞭なままなのである。

まず典農洞588番地に由来するという説に対して点検してみることにしよう。1960年代中盤こちらに移住し、現在のロッテ百貨店裏手でサービス業を営んで40年になるという生粋の地元民H翁の話。 70年代初めから半ばにかけてのこと。二人の子供が小学校と中学校に通っている時分経験したというその生々しい記憶によれば、当時清凉里駅舎西隣のマンモスホテル裏には市電線路の終点が位置し、国鉄の線路沿いには軍部隊練兵場と輸送部隊があった。そしてその一帯の番地数こそがかつて間違いなく典農2洞588番地だったのだという。またその頃小学校に通っていた息子が学校に提出した家庭調査書の自宅住所地が「588-48号」、先生からあらぬ「疑い」の目で見られ、それがもとで息子が登校拒否にもなったのだと。しかし実際にH翁が暮らしていた地域、すなわち清凉里駅のすぐ裏側は淪落地帯ではなく、地図上で下方側こそが淪落地帯に該当するのであった。ところが世間一般に知られた典農洞淪落地帯はまさに「清凉里588番地」で通用していたため、学校の先生からは娼女村に住んでいる子供と誤解を招く原因になってしまったようである。

そんなことがあったので当時H翁と近所の住民たちは子供にかけられたあらぬ疑いを晴らすため、洞事務所に大挙押しかけ「番地数をなんとか変えてくれ」と涙ながらに懇願、ようやく改番に至ったのだという話である。 (2008年7月H翁の口頭証言) こうした事実は1981年ソウル市が発表した整備計画においても確認することが出来る。ここでも明らかに整備対象として示された「清凉里588」淪落地帯を「典農2洞588一帯」と表記しており(「京郷新聞」1981年10月)、1980年9月の「東亜日報」も東大門区管内私娼街を典農洞588および620一帯と区分し、明記している。したがって「清凉里588」は行政区域上、典農2洞588番地のすぐ隣、620番地および622‐624番地一帯であるとみなすことができるのだ。元来588番地は性売買業所が密集している場所ではけっしてなかったわけである。

次に588バスがこの場所を通っていたという説を点検してみる。結論からいえば、市内バスはここを通ってはいなかった。実際にここを通っていたのは「568番バス」である。しかし、にもかかわらずH翁の息子は「588バスは間違いなくここを走っていた」と自信もって証言する。姉が徽慶女中校に通うのに588番バスを利用していたというのがその根拠だ。麻浦を出発し拝峰裏山を終点とするそのバスを見て「何故よりによって588番と思ったのか?」当時清凉里地域を走るバスは大体10番、17番など二桁の番号だったが、「そういえばある時期突然三桁のバスが現れて、にわかに理解できないことがあった」とも彼は述懐する。たしかに1974年頃、88番から588番に系統番号を変えたバス(新吉運送)は禾谷洞から中谷洞(こども大公園)の区間を運行していた。番号が88番から588番に変わった理由、それはこども大公園を通る全てのバス路線がその番号の前に「5」の数字をつけるようにしたからだ(新吉運送関係者からのインタビュー)。1978年、市内バス会社である安城旅客が倒産して以降、588番バス44台中22台は禾谷洞-城東署-セッサン路-蚕室大橋-蚕室市営アパートに運行路線が変更され、1980年には新月洞から第2漢江橋(楊花大橋)-新村-萬里洞-退渓路-往十里-こども大公園-蚕室大橋-風納洞と再変更された。したがって588番バスは東大門区を経由するバスではなかったことが明らかである。

では何故数多くの人たちの記憶の中に清凉里588と市内バス588番が同時に連想されるのだろうか。新吉運送関係者は「588番バスは『清凉里』を通るのかという若者からの問い合わせ電話がいまだに多い」と証言する。平素この路線バスを利用したことはなかったものの、軍入隊のために仕方なく清凉里汽車駅や馬場洞市外バスターミナル(訳註 現東大門区庁位置、1985年上鳳・東ソウルに統合、廃止)に向かわざるをえなかった若者たちにとって、「清凉里588」と「588番バス」が同一線上に連想されたとしても何ら不思議はない。H翁の息子が覚えていたバスは588ではなく「568」であった可能性が高い。568番バス(ソウル乗合バス)は京東市場-清凉里駅-清凉里市場-徽慶1洞(忘憂路)-徽慶洞-衛生病院を経由するバスとして、その後1990年には明逸洞-清凉里を、1998年には高徳洞ー清凉里間をむすぶ路線としてあった。H翁の息子は、当時バスの車掌がアナウンスしたフレーズ「清凉里-中浪橋-忘憂里へまいります」を言い換え「『チャラリ、チュグロ、マングリ、ガヨ (いっそ死んで忘憂里にまいりましょう)』(訳註 忘憂里には市民墓地が所在、現在新規埋葬中止)とよくふざけていたことを思い出した」と語った。


4- 3 清凉里駅と「清凉里588」


ならば「清凉里588」はいつ、どのようにして出来上がったのか?チン・ヤンギョ教授は日帝時代に繁盛した私娼街は主に鉄道駅と関連があるという点に着目し、ソウルと江原道、慶尚北道、京畿道をつなぐ中央線と京元線、そして京春線の終点である清凉里駅周辺にも古くから私娼が乱立していた可能性を重く見ている。ソウルと元山をむすぶ京元線は1911年に開通し、すでに1926年時点で乗降客数は40万人を突破、清凉里駅は貨物輸送よりも旅客輸送の面でいち早く発展した。しかしホン・ソンチョル(訳註 元文化日報記者、著書「遊郭の歴史」)は「この時期いまだ清凉里の性売買業所は盛り上がりを見せてはいない(2007年)」と推察する。「なぜならば日帝時代において、公娼である新町遊郭や弥生町遊郭以外の性売買業所は警察の取り締まり対象であったからだ。やがて1930年代に入り、京城市内各所で私娼が台頭しはじめると、徐々に清凉里駅周辺でも密売淫がおこなわれるようになったのではないか」と、そう分析する。<写真2,3><写真4

それと関連し、この時期には、1938年ソウル‐堤川‐慶州をむすぶ中央線、1939年ソウルと春川をむすぶ京春線の開通が相次いだことにより、清凉里駅およびその周辺がますます栄えるようなった。さらに言えば清凉里は朝鮮領に初めて敷かれた市電路線の終点駅でもあったのだ。(現在市電線路は撤去され同じ道路の下には地下鉄が敷かれている。) しかしながら実質的に清凉里周辺に淪落街が栄え始めたのは「自由党時代からだった」(訳註 第一共和国、1952-1960)という。こうした地元の人の声を推し量ってみるに、永登浦駅周辺と同様、韓国戦争(訳註 朝鮮戦争)以後本格的に興ったものと推測できる。清凉里駅は江原道鉄原、金化、華川、楊口等、軍人たちが入隊と帰隊、そして休暇を迎えて最初に入城する関門であった。江原道前方部隊の山中の鉄条網の前でつねに鋭い目つきをして敵陣を睨み付けていた将兵たちは、休暇ともなればピカピカの軍靴に履き替え清凉里駅のプラットフォームに降り立つ。彼らを相手にする各種産業が発達し、性売買女性たちも集まり始めた。死地に向かい、死地から帰ってきた20代の青臭い軍人たちにとって、清凉里駅前淪落地帯とは生きていることを再確認させてくれる場所になっていったのである。

そのうえ1960年代後半、代表的なソウルの私娼街だった鍾三、陽洞、昌信洞があいついで撤去されたことにより清凉里はいっそう発展することとなった。1960年代後半には隣接した竜頭洞に馬場洞市外バスターミナルが位置し、汽車駅と市外バスターミナルを同時に抱えるソウル都心の発達した交通軸(電車-バス-地下鉄)、東北部関門に位置する私娼街として好況を享受した。これに加えて70年代だけでも、周辺に位置する京東市場、清凉里市場(訳註 1970年代には南大門市場に次ぐソウルのメガ市場であった)。青果物市場、水産物市場、東西市場を中心にソウル東北圏最大の商圏を形成した。ここに出入りする多くの商人たちも自ずと588の重要顧客となっていた。また1970年代から1980年代にかけては「酒を呑んで歌を唄ってダンスを踊っても、心は悲しみで満ち溢れてい」る若者たちが清凉里に集まった。清凉里駅の時計塔はたぶん全国でもっとも重要な待ち合わせ場所だったに違いない。時計塔の下にはつねにリュックとギターがうず高く積み上げられ、東海にでかける、いやわざわざ東海まで出かけなくとも、磨石、清平、春川へ行くには必ず清凉里駅に集合しなければならなかった。若者たちにとって清凉里とは解放区への出発ゲートだったのである。<写真5,6><写真7><写真8,9


4- 4 清凉里588と劇場


清凉里は列車の始発駅であるのと同時に終着の駅でもあったが、他の交通手段に乗り換えてまたどこかへと出かけるための「通りすがりの場所」でもあった。ために清凉里駅前は交通の要地であるにもかかわらず、これといった背後施設がない。清凉里駅前に集まる人々は、久しぶりに決心して、どこかへと旅立つ人々である(1974年大旺コーナー火災で実に88名の命が失われたとき、死亡者の大部分は無計画に上京してきた行くあてのない地方の若者たちだった)。<写真10

したがって汽車の発車時間をうまく間に合わせることにも不慣れで、余った時間をどこかでつぶさざるをえない場合も多く、街路のあちらこちらには何の気なしに飛び込んでも入場料を惜しまず、すぐ出てこられるような映画館が必要だった。オスカー劇場(1960年10月)を皮切りに統一劇場(1960年12月)、大旺劇場(1969年9月)、時代劇場(1959年12月)など、二番館ではあるがロードショー館とたいした時間差もなく多様な番組を上映するこれら劇場のほか、大小10ヵ所あまりの小さい映画館が清凉里駅や588の周辺で人気を集めた。もちろん劇場の繁盛と「清凉里588」は無関係ではなかった。劇場の看板にはいつでも半裸の女性の絵が描かれており、同時上映プログラムの大半は(「X世代」や「桑の葉」のような脱衣シーンやラブシーンのある)エロティックな作品が多かった。またさらに1982年1月6日0時を期に夜間通行禁止措置が電撃解除され、オールナイト上映が盛況を博したのもこの時期のこと。そのため劇場街には、常に「性的誘惑」が潜んでいた。特に映画は大部分の観客が「青春男女層」であり、薄暗い映画館内では「確実にその気にさせる性的誘惑」に当てられいっそう敏感となり、現実的可能性に対する欲求はいやが上にも高まらざるをえない状況にあったのである。それゆえポン引きたちは劇場前までやってきて躊躇いなく客引きをおこなった。こうした劇場街の街灯の下、女はすべて商品であり、男はだれもが行きずりの客であるばかりだった。 <写真11><写真12


5.「清凉里588」の消滅

5- 1 何度も消え去りかけた「清凉里588」

1980年のクーデターで権力を掌握した新軍部はやはり「516」軍事政権同様、強力に社会浄化を繰り広げた。ソウル市は社会浄化運動の一環として、龍山駅前、永登浦駅前、中区陽洞、東大門区典農洞588一帯等、ソウルの代表的私娼街に対する大がかりな浄化作業に着手し、この機会に淪落行為を根絶させようと決意した。ソウル市は各該当区庁別に浄化委員会中心の善導と事業主やポン引きに対する告発措置など、段階的取り締まりと善導事業に打って出る反面、私娼街が根をおろす地域の再開発事業を実施することにした。このようなソウル市整備計画にしたがって、1981年10月「清凉里588」に対する本格的な整備計画が発表された。まず第一次計画として陸橋前の淪落街20棟を撤去し、道路と緑地を造成するため、7億ウォンの予算を組んで年内に補償を完了、きれいさっぱり整備がおこなわれる手はずではあったが、この計画は結局実施されることがなかった。

「清凉里588」の最大好況期はまさにこの時期(1980年代・第5共和国時代)であった。夜間通行禁止が解除され、3低好況によって経済状況が順調な時期であったからだ。それ以降、588の好況期は10年間持続した。この時期の淪落街の外貌は現在とはほとんど違っており、ガラス窓の代わりにベニヤ合板で拵えたルーフィング形態の小屋であった。清凉里駅の左手奥深くに位置する駅前派出所付近の旅人宿村のように、大小の娼家が鈴なりに寄り集まっていた。ユリ房(ショーウィンドー)が登場する前のことであり、その頃の路地には女性たちがあちこちうろつき、往来を行き来する男性に熾烈な客引き行為を仕掛けていた。88オリンピックを前にした時期、あらためて淪落街施設に対する大掛かりな整備事業計画がもちあがった。しかし今度は「摘発や撤去」のためのものではなく、外国人たちに対する美観のためのものだった。ソウル市は典農2洞清凉里588周辺1万2000坪を「特別整備事業地域」として指定、不良建物再開発および不良住宅再開発を開始した。清凉里だけでなく彌阿里、龍山、千戸洞などソウル淪落街はもちろん全国の淪落街で「環境改善作業」が実施された。

またこの時期、オランダの紅灯街のような大きなショーウィンドーをそなえた現在の「ユリ房」型店舗が本格登場した。 オリンピックが開催された1988年が「清凉里588」のような専業型性売買がおこなわれる集娼村の最高絶頂期であった。以降は性売買集結地である集娼村(遊郭、淪落地帯、私娼街、赤線地帯、特定地域と呼ばれる)も、集娼村の女性数も徐々に減少をはじめた。しかしながらそれは性売買女性の数が減ったわけではなく、1990年代に入ってからは「清凉里588」のように「番地のある」専業型性売買より「番地のない」兼業型(産業型)性売買や専恣型(独立型)-出張型性売買が増加をみるようになった。1994年ソウル市は永登浦地域とともにこの地域を再び都市再開発区域に指定、1995年から事業内容を決定し、1996年以降本格的な再開発事業に取り組む計画を立てた。その計画推進のため同年3月22日から5月16日までの間、土地所有者らへのアンケート調査を実施したところ、72.1%が賛成、13.1%が反対という結果となった。しかし結果は業所従事者と周辺商人たちの強力な反対によって、思い通りに再開発を進めることは叶わなかった。 <写真13><写真14


5- 2、歴史の裏道に消える清凉里588

「清凉里588」は実際にどの程度その名を知られているのか。これに関しては1999年11月18日付の「週刊朝鮮」記事中、「外国人たちの間でさえ『彌阿里テキサス』『清凉里588』は、若干危険なようではあるが概してとても満足できる私娼街、と噂を呼ぶほど高い知名度を誇る。これら二ヵ所の私娼街の英文表記を外国人たちは『MiAhLee』『OhPalPal』と充てており、遠くない将来オックスフォードやウェブスターに単語登録されるのではないかと危惧されるほどだ」というハン・ヒョヌの記述が確認できる。それほどまでに「清凉里588」が韓国を代表する集娼村だという認識が一般に広まっていたという証左である。しかし2004年の性売買特別法施行により「清凉里588」は少なからぬ打撃を被った。150軒余りに達した性売買業所数は2007年時点で80軒余りに急減したものと推定され、一業所に2,3人いた性売買女性数も1名いるかいないかという程度にまで落ち込んだ。こうした状況下ソウル市は性売買特別法を集娼村再開発のための大きな後ろ盾としつつ、2006年1月13日「清凉里588」の一部区域道路を拡張する都市計画案を発表した。この計画案は、踏十里―ロッテ百貨店間の総延長226m道路の道幅を8mから32mに大幅拡張する工事の必要上、性売買集結地の一部に該当する土地を公的に収用するという内容を盛り込むものだった。

その後2007年2月1日には実際に建物撤去工事が実行され、放送・新聞等主要マスコミ媒体は「清凉里588、半世紀ぶりに撤去」「清凉里588、歴史の中へ」などと大々的に清凉里588撤去消息を伝えた。このような報道内容は清凉里588の撤去があたかも秒読み体勢入り間違いないものであるかのようにも受けとめられた。じじつ当時清凉里588一帯の撤去された箇所はたったの2箇所にすぎず(訳註 2009年11月該当部分完全撤去)、その後持続的に撤去や閉鎖が相次いで業所や女性数の減少はみたものの、2009年7月現在においても清凉里588の一部業所(50軒あまり)は正常に営業を続けている。<写真15


6.清凉里588の女性たち


ソウル四大門外に位置する東大門区は1943年の区制実施により設置された。設置当時東大門区の管轄区域は昌信、祟仁、新設、安岩、鍾岩、敦岩、竜頭、祭基、清凉、回基、里門、徽慶、典農、踏十里等14か洞で編成され、1944年鍾路区の城北洞を編入し計15か洞となった。東大門区に編成されたこれら洞は、大部分が1936年(昭和11年)第一次京城区域拡張の際に京城府に編入された区域であり、都心生活から脱落した貧しい層の朝鮮人が集まり暮らす場所として知られた。日帝期に新設洞付近に形成された土幕部落、解放後に東大門区中浪川の畔や踏十里に出来上がった天幕部落やバラック部落などは事実上華麗な都心から追放されたか、もしくは端た金すら持たずに上京したのち、ありとあらゆる雑役に従事しつつ辛うじて生きながらえてきた人たちの「人生のつきあたり」であった。そしてそうした彼らを載せて揺らぐ清凉里駅前は、貧しい人々の重みをついには支えきれず、時にはまたどこかへと去ってゆく彼らのための出発点にもなり得、それすら叶わずその場にとどまらざるをえない人々にとっては終着点ともなり得た。 「清凉里588」とそこに身を置く女性たちの姿は清凉里駅と大きく似通ってもいた。そこはまさにソウルの街外れであり「人生のつきあたり」とも呼べるもっとも古くて巨大な、韓国を代表する性売買女性(娼婦)集結地の表象であったからだ。赤裸々に言えばそこは体を売る彼女らの最後の自尊心であり、生の砦と呼ぶことがさらにふさわしいのだともといえよう(朴鍾盛「権力と売春」1996)。またこのような性売買女性たちのおかげで、じつに数多くの人々が生きながらえることができた。<図6>権光旭の小説「鞭が痛ければ目を開けろ」は、588をこのように描写する。
 
588という空間を満たしている多くの人々は皆・・・ 落伍者であり、
退職金を一挙に使い果たして無一文でこの清凉里路地にやってきた金上士(主人公)は彼らの代表格なのだ…

「清凉里588」は特別な場所だった。竜山と同様に出退勤が自由な上、抱主との分け前の配分が5対5だったため、ミアリや千戸洞の女性たちからは羨望されることもあった、すなわち性売買女性たちもそれだけ他のところより「競争力」を備えていたということだ。1970年代から「タレント顔負けの美貌とスタイル」と評価され、1980年―1990年代にはミスコリア級の8等身美女がズラリ揃っているともうわさされた。これは性売買女性を業所に斡旋する「パリックン(斡旋屋)」が千戸洞やミアリ、あるいは竜山から見栄えのいい女性をスカウトして、清凉里へと持続的に供給するからであった。ならば「清凉里588」の女性たちはどの程度の規模存在していたのだろうか。1997年1月時点の588従事女性数は最大で1000名程度に達していたことが推定されるが、全体遊郭従事者に対するリストと現況を管掌する清凉里駅前派出所の担当警察官は遊郭女性の全体数はせいぜい200名未満だと話している。実際の調査が不可能なため、1000名という数字の信憑性には疑問の余地が大きい。また588遊郭の業所総数に関しても関連文献ごとに若干の差異が見られる。

クァク・ビョンチャン(訳註 「ハンギョレ新聞」記者)とその同僚ら(1994年)は約100業所、ユン・ヨンホ(1994年)(訳註 「マル」誌記者)は300業所余りに200名前後と見ている。一方チン・ヤンギョ教授(1998年)は200か所程度の業所が存在しており、業所ごとに最小4ー5名の女性が働いているものと見積もっている。したがってこの場所には凡そ800‐1000名余りの女性が従事していたのではないかとひとまずは推定できる。一日に遊郭を訪れる人々は1500名余り(ユン・ヨンホ)、3000名余り(クァク・ビョンチャン)、絶頂期(80年代後半‐90年代初め)には約3000名の人々が訪れていたという説もあり、景気が悪いときですら一日平均1500‐2000名程度がやってきていたと588の関係者は語る。してみると一日平均588遊郭地域内で生じる売り上げ金額はいったいどの程度の規模のものだったのだろう。遊郭訪問者が800‐1000名というとき、等級ごとに多少の違いはあるものの、一回あたりショートタイム平均4‐5万ウォン、一日平均1‐2回程度客を受けると仮定するならば、約1億ウォン程度のお金が動いていたものと考えられる。しかし2007年7月現在での現状は10か業所中1業所ほどが依然として営業を続けるのみで、一日1名程度も難しいのが実情だ。あれほどまでに大勢いた588の女性たちは果たしてどこに消えてしまったのだろうか。2004年9月23日に性売買特別法が電撃施行されて10日も経たない9月29日午後8時頃、ソウル城北区下月谷洞の俗称「ミアリテキサス」に所在する性売買業所従業員ユン某氏(24・女)が大量の睡眠薬を飲み動脈を切って自殺を図った。ユン氏の部屋には遺書の書かれた小さな手帳が発見された。

「世上という名前と権力をもつあなた方、
あなた方のために殺されてゆく人たちがどれほど多いものかを知ったらあなた方は…
政治をおこなう人たちはわたしたちをむやみに殺していいものなのでしょうか。
自分の家よりもっと気楽な場所、
実の両親よりももっとわたしの面倒をみてくれる場所、
それがここだったのに…」

(月刊朝鮮2004年11月号)」

社会の「下水終末処理場」あるいは「泥沼」とも呼ばれる私娼街を「家よりももっと気楽な場所」だったと語ったユン氏をわれわれはどのように理解すべきか。性売買を通じて生計を立てていたユン氏が唯一身を寄せられる場所はこの私娼街だけなのであった。

2004年10月7日昼12時30分、ソウル汝矣島の国会前では女性たち3000名余りが目深に帽子をかぶり、マスクをしたまま、歩道と2車線道路上にぎっしり座り込んでデモをおこなった。彼女らはソウル、釜山、大邱、江原等全国12か所集娼村に集結した女性たちであった。

史上初の性売買女性たちによる全国集会として、地方警察署の情報課刑事までもがソウルに召集されたことで警察官らの雰囲気はいつになく緊張がみなぎっていた。ソウル清凉里集娼村(俗称清凉里588)から来た参加者たちはジーンズにTシャツの普段着姿に赤い帽子と白いマスク。ソウル竜山駅の集娼村女性らは揃いの紺色の帽子をかぶっていた。集娼村ごとそれぞれ違う色の帽子とマスクを準備し、肩には「生存権保障」「2007年まで猶予せよ」等の文章が書かれたタスキを巻きつけていた。

(朝鮮日報20041008)

性売買特別法の最大受恵者であるべき性売買女性たちは何故肩にタスキを掛け、救護を訴えてデモを起こしたのか。何故自殺を図ったのか。性売買に関する有効な代案が何ら存在しない現状を前に「必要悪」ではなく「なくすことの出来ない悪」なのだと語る人もいる。こうした現実の悲劇的衝突を眺めつつ、さらにもう一度最初の問題意識に戻ってみる。「清凉里588」という物理的空間はそのなかに生じる人間行為の道徳的・倫理的な受け皿としてのみとらえることはできない。それはわれわれが生きる世の中の歴史的かつ社会的な構成物であり、まさしく利益を生み出す商行為そのものである。そして韓国社会がこれまで半世紀間成し遂げてきた経済成長との密接な関係は途切れることなくいまも継続しており、その場所では「お金と権力」の関係がまぎれもなく現在も適用されている。人生の終末地、東大門外「清凉里588」をかつて追われた女性たちが「消えゆく588」の地、「人生のつきあたり」にふたたびもどってくることのない社会が実現されることをせつに願う。


呉有錫 聖公会大学校民主主義研究院教授
ソウル市立大学校「ソウル学研究所」紀要


 





 

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    Round And Round - Nami 1985
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    Shake Your Booty - Sarang Gwa Pyunghwa 1979
    Fire, Come Together - Sarang Gwa Pyunghwa 1979
    Birthday - Garam Gwa Mae 1978
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    The Rain Pours Down - Sarang Gwa Pyunghwa 1979
    Silent Night Holy Night - Seoul Nageunae 1976
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    A Day Of Sunrize - Seoul Nageunae 1976
    Balloon In My Heart - Seoul Nageunae 1976
    NoNoNoNoNo - Ha,Soo-Bin 1992
    Rose - Sarang Gwa Pyunghwa 1979
    Dokdo Is South Korea Land - Jung,Gwang-Tae 1982
    Ave Maria - Sarang Gwa Pyunghwa 1978




    All songs arranged & performed by
    Kim,Myung-Gon (1952-2001)



    https://soundcloud.com/koreastationnouveau/sets/kim-myung-gon-sound-vol-1







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